すべりこみアウト。<将来設計> 息子が帰り道、母に悩みを打ち明けた。 「Mちゃんと結婚したいのにMちゃんはHちゃんに頼めば?って」 「じゃ、Sちゃんにしたら?」 「でもSちゃんはKくんと結婚するって言ってた」 「じゃぁ、Wちゃんは?」 「・・・いやだ。かじるもん」 「・・・・・」 「もう!僕、誰と結婚したらいいん?ずっと一人暮らしやん」 ひ? 一人暮らしって・・・・。 「もおっ!誰が子供産んでくれるん!!!!」 い。いやぁ。何も4歳でそこまで・・・・。 <都合のいい耳> 以前、体の調子を壊したことがあった。 二人目の断乳を終えてしばらくたった頃で、苦しいことが立て続けに 起こったこともあって、体が悲鳴を上げたのだ。 といっても本人はつらいが傍目にはさっぱりそのつらさがわからない、 という症状だったので(いわゆる更年期障害みたいな)余計に始末が悪い。 それはさておきあまりにもつらいので漢方薬に頼ろうと 近所に出来た漢方薬に詳しい薬局を訪ねてみた。 そしてカウンセリングのような問診のようなものを済ませた後 これがいいでしょう、と私の症状や生活に合ったお薬を選んでくださった。 そして「体を冷やすのもいけません。ビールとかコーヒーは厳禁ですよ」 の言葉に一瞬引く私・・・。先生、どっちも大好きなんです。 しかも当時はビールもおいしい夏真っ盛り。絶対だめですか??? つらいくせに我儘な患者の言葉に「要は気持ちの問題なので好きなものを我慢して余計にストレスがたまってもいけません。この暑さ。そして仕事上がり。そんなときに1杯飲みたくなる気持ちは分かります。ストレス解消程度にお風呂上りの1杯位はいいですよ」 (私にっこり)そうですかぁ!飲んでもいいんですね!いやぁよかった。よかった。 もうすでに「飲んでもいい」という言葉しか残ってない私の耳であった。 (・・・そして今に至る・・・・) <決別> 今に満足しているけれどもなんとなく過去が気になる。 過去とうまく決別できない性分。 時々振り返って懐かしむ程度なら誰だってある。 気にしなければ気にならない程度のやり方で ほどほどに付き合っていけばいいのだと思うけれど。 何分、不器用なようで。 過去とうまく離れられないのは何か納得できてない部分があるからだ。 納得できないままでここに歩いてきてしまっているから。 こころをあそこのあの辺りに すこし残したまま来てしまったみたいだ。 後返ろうかどうしようか。 迷うまでもなく、もう戻れはしない。 さて。 どうやったら残してきてしまったものを取り戻せるのやら。 はたまた頑固なこのこころを納得させられるものやら。 <おしり> 私は私の子供のおしりが好き。 特に息子のとがり気味なこじんまりしたおしりが。 男の子と女の子でこんなにも違うか!というくらい二人のおしりは違います。 娘のはほんとに女の子らしくまる~いまる~いぷよぷよおしり。 対して息子のはおしりの頂上?に向けて少しずつとがりキュッと締まった感じ。 そしてある日私が何気に「あなた達のおしり好きぃ~」とさすってから 子供達は何かにつけおしりをぷりっと出しては 「はい!さわってもいいよ」と差し出すようになった。 お着替えの途中にふと思い出したり。 お風呂に入る前に飛んできたり。 さすがにトイレから出てきたばかりのお誘いは丁重にお断りいたしましたが。 これ。 よく考えると究極の愛情表現かもしれない。 相手の欲してるものを無償で差し出す。 与える喜び。 そして今日も息子はやってきます。 「はい!使ってもいいよ」 ありがたくさすらせていただきます。 すべすべの無垢な愛すべきおしりを。 <築く> たとえば心を込めて作られた別に何ということのないごはんを 残さずおいしく食べるということ。 たとえば疲れて帰ってきた人のために丁度よい時間に 丁度よい湯加減のお風呂を用意しておくということ。 たとえば今日気づいた何かをそのままにしておかずに きちんと言葉で伝え合うということ。 その言葉にまっすぐ耳を傾けるということ。 毎日の生活のささいなあれこれの中にたくさんある、 大切なエッセンス。 二人を。築きあうエッセンス。 <生涯の恋人> という歌が吉田美和の歌にあります。 とても静かで悲しく強い歌です。 この歌を知る遥か昔まだ制服を身にまとっていた頃。 私の日記に「一生の人だ」と書かれた人がいました。 その人とは恋人ではなくただの友達。 ただの友達止まりの「一生の人」 いろんな分かれ道がありましたが私はそっちには行かなかった。 たくさんのチャンスもあったけれども私はこっちに進みました。 もうそれはそういうふうになっていてとても自然な川の流れのようなものだった。 立ちはだかる壁も乗り越えるべき大きな障害も何もなかった。と思う。 けれどもわたしはここに来た。 そうなるようになっていた。としか言えない。 間違いなく私の選んだ道がここ。 それでも彼は私の中で「一生の人」です。 それは。 誰よりも一番大切な人。とか 一緒にはなれなかったけど死ぬまで好きな人。とか そういう意味では全くなく。 ただその文字通りのそのままの意味。 でも。 それを本当に大切な人にわかってもらうのはとても難しい。 いまだにその術を見つけられず、大きく誤解されたままだと思う。 時間をかけても決して分かり合えないということがあるのだろうか。 あるのかもしれない。 それでも共にいきたいなら 封印するしか術がない。 <視点> 「雪が降る」と聞くと大人は色々考えます。 明日の通勤通学をどうしようか。 タイヤにチェーンか。 はたまた歩きか。 逆算して起床は何時か。 着ていく服はどうするか。 休みなら家から一歩も出ずにぬくぬくと過ごそう。などなど。 一方雪が降ると聞くと子供の頭の中はそれこそ雪でいっぱい。 明日の遊びの予定ががらりと入れ替わり マフラーや手袋をしていけるのも歩いていくのも きゅっきゅっと音が鳴るのも 雪だるま作るのも雪合戦するのも 凍結した歩道をスケートよろしくすい~すい~っと滑れるのも 何もかもが嬉しくってしょうがない。 目の前に雪があるのにそれを楽しまなくてどうする! とでも言いたげです。 ともすると何も見ず何もしないで現状維持派の大人を 子供がぐいぐいと無理矢理手を引っ張って 外の世界へ連れ出してくれるとき 面倒くさいなぁと心底思いながらも あとでうちに戻ってみると 不思議なことに心も体も晴々としていたりなんかして。 そういうことがあってそういう風なものなんだなと悟ったつもりで でもまた「雪が降る」と大人は部屋にこもりがち。 でもまた子供が引っ張る手。それをを振り解かずに 面倒くさいなぁと思いながらも出て行く。 そういうことでいいのです。 <家族> 私は毎日来る日も来る日も麦茶を作る。 やかんに湯を沸かし頃合を見て麦茶パックを投入。 荒熱が取れたらボトルに移し冷蔵庫へ。 これを毎日毎日繰り返す。 家族がいざ飲もうとしたときに麦茶がない。 ということがないように。 でも私自身は麦茶を一滴も飲まない。 日本茶党。 飲みたいときにその都度一杯一杯熱いお茶を淹れて飲む。 けれど毎日毎日自分が飲むわけではない麦茶を作り続ける。 そんなときにふと思う。 これが家族というものさね。 |